皆様こんにちは! 佐世保ねぶた祭り実行委員会の井手です。
令和3年5月26日に青森県にある三内丸山遺跡が、ユネスコの諮問機関イコモスから「北海道・北東北の縄文遺跡群」として世界遺産一覧表に「記載」することが適当である旨の勧告がなされました。
私が三内丸山遺跡の存在を知ったのは小学生のころ。物見やぐらのような建物、十字型の少し怖い顔をした土偶などの写真を見て、こんな遺跡が長崎から遠く離れた青森にあるのだなとワクワクした覚えがあります。
時は流れ、宮城県仙台市に住むことになった私は、青森に旅行した際に三内丸山遺跡を訪れました。
写真で見た土偶を実際にこの目で見たことに感動し、また再現された巨大なやぐら驚かされました。
作家の司馬遼太郎先生は、この三内丸山遺跡を見て、「北のまほろば」という表現をされました。
太古の青森は栄えていて大変豊かで栄えていた場所という話を聴き、表現されたようです。
太古の昔は、東京ではなく青森が文化の中心であったのかもしれません。
実は、三内丸山遺跡がある場所は野球場が建設される予定でした。
しかし建設を進めていく過程で遺跡が発掘されて野球場の計画は中止、遺跡が保存されることになりました。
三内丸山遺跡では、翡翠のアクセサリーが発掘されています。アクセサリーが意味するのはなんでしょうか。
縄文時代は狩猟が中心であったため、どちらかというとその日暮らし。毎日猟に行く生活だったようです。
本当であれば、アクセサリーを作る余裕などはありません。しかも、翡翠という硬い鉱物です。
それを加工するためには、ある程度のまとまった時間が必要になります。
アクセサリーがあるということは、生きていく上では絶対に必要というわけではないアクセサリーを作ることが
できるほどそのムラが豊かであったことを表しています。
原料の翡翠も青森県内では採掘されるものではありません。このことから、他の場所と交易を行っていたことが想像されます。
縄文時代に青森から、日本全国に繋がっていたことを考えるととんでもないドラマがあるように感じます。
皆様もぜひ、コロナが終息した際は三内丸山遺跡に行って遠い縄文時代に思いを馳せてみてはいかがでしょうか。
ガイドさんにお願いしてお話を聴くのがなお、楽しいです
(上記のお話はガイドさんに案内していただいた時にお聞きした内容です)。
ここまでご覧いただき、ありがとうございました。